釈迦の言葉                  戻る          


 昔、ある金持ちの女主人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家に一人の使用人がいて、これも利口でよく働く人であった。

 ある時、その使用人がこう考えた。

「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう。」

 そこで、使用人は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。女主人は機嫌を悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません。」と言葉を返すと、女主人は怒った。

使用人はさらに次の日も遅く起きた。女主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、女主人はそれまでのよい評判を失った。



 誰もがこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることが出来る。しかし、環境が心に逆らっても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

 自分にとって面白くない言葉が耳に入ってくる時、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心とよい行いとを持ち続けることが出来るであろうか。

 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行いをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


『仏教聖典』128n〜130n